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展示解説:日本人の旅の変更点

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!!!日本館2F北翼「日本人の旅」展示解説のポイント
*2010/08/29「教員のための博物館の日2010」
*国立科学博物館・人類研究部編
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!!1)導入部
*日本列島の人口が1億人を越えたのは1960年代後半のこと。
**【展示:10億人の日本人】

!!2)旧石器時代
*日本列島にホモ・サピエンスがやってきたのは、およそ4万年前頃と考えられている。
*それ以降、縄文時代が始まる約1万5000年前の間を、(後期)旧石器時代と呼んでいる。
*旧石器時代の人々は、決して山の中に住んでいたというわけではない。彼らの活動の証拠(遺跡)は全国各地にある。展示してある剥ぎ取った旧石器時代の石器を含む地層は、東京都杉並区の高井戸小学校で採取した。(つまり旧石器時代の祖先の遺跡は、皆さんの足元にある!)。
**【展示:高井戸東遺跡地層剥ぎ取り】
*日本の土壌は酸性であるため、旧石器時代の人骨はほとんど溶けてなくなってしまっている。しかし石灰岩が豊富な沖縄からは、ほぼ完全に港川人の骨格など、いくつかの人骨化石がみつかっている。
**【展示:港川1号全身骨格模型】
*遺跡の発掘や石器から、旧石器時代の祖先たちの様々な活動についての研究が進められている。

!!3)縄文時代
*約1万5000年前に始まり1万年以上も続いた縄文時代、人々は狩猟と採集に依存する暮らしを営んでいた。
*同じ縄文人でも早・前期の人骨は全体的に華奢であるが、中・後・晩期になるとがっしりと筋骨たくましくなる。
**【展示:縄文早期人:妙音寺洞穴1号(男性全身骨格)】
**【展示:縄文後・晩期人:蝦島51(男性全身骨格)】
*顔や眼窩は上下に短く、鼻筋が通っている。
**【展示:縄文晩期人:宮野104(男性頭骨)】
**【展示:縄文後・晩期人:蝦島20(女性頭骨)】
*中・後・晩期人の平均身長は男性が158cm、女性が149cm。
*世界的に見ても、縄文人は最も早い時期に土器を使った人々だった。
**【展示:壺型土器】
*初め土器はもっぱら食物を煮炊きする道具として使われた。それまでの「生食」「焼く」という食べ方に加えて、土器で「煮る」という新しい食べ方ができるようになり、食料の種類と範囲が拡大、食生活が向上した。

!!4)弥生時代
*紀元前9〜8世紀ころ、大陸から組織的水田耕作と金属器の文化を持った人々が北九州・本州西部に渡来し始め、在来の縄文人と混血しながら、ゆっくりと周辺に広がった。これが現代日本人形成プロセスの始まり。
*北九州や本州西部から発見される、いわゆる渡来系弥生人と、それ以外の地域から発見される、縄文人的な特徴を残した在来系弥生人などが区別される。
*渡来系弥生人の顔かたちは縄文人のものとはずいぶん異なり、鼻の付け根が平坦で、顔は全体的に上下に長く、のっぺりしていた。
**【展示:弥生人:吉野ヶ里遺跡 四の坪K−18(男性全身骨格)】
*渡来系弥生人の平均身長は男性が163cm、女性が151cm。縄文人よりもかなり高かった。
*大陸から北部九州地方に渡来した人たちは日本に金属器と水田稲作農耕をもたらした。彼らは縄文人の末裔と混血しながら全国に広がり、弥生社会は急速にその人口をふやした。

!!5)日本列島への渡来経路【パネル:日本人が来たルート図】
*日本人は、北海道のアイヌ、本州・四国・九州などの本土人、そして南西諸島などに住む琉球人という、大きく3つの地域集団に分けて考えることができる。
*アフリカでホモ・サピエンスにまで進化した集団の一部は、約6〜3万年前に東南アジアや東アジアに到達し、次いで、約1万年前までには日本列島に来て全土に広がった。これが縄文人である。その後、縄文時代末、中国北東部から江南地域にいた人々の一部が朝鮮半島経由で西日本に渡来し、縄文人と一部混血しながら、日本列島に拡散した。これが弥生時代以降の本土日本人の祖先である。

!!6)日本人の頭骨
**【展示:日本列島地図上の各地縄文〜近世集団の典型的男性頭骨】
*縄文時代以降の日本列島の各地に住んだ人々の変遷を示すために、頭の骨をまとめて展示している。これらの人骨を観察すると、1万年以上にもわたる期間に、日本列島には様々な姿形をした人々が住んでいたことがわかる。
*最も古いのは縄文人で、ここでは北海道(八雲コタン)と東北(蝦島貝塚)の遺跡から出土した人骨が展示されている。
*沖縄の貝塚時代(縄文〜平安時代初期)の人骨(大当原遺跡)は、鼻の付け根が深くくぼんでいるという特徴は東北や北海道の縄文人に共通しているが、全体的に小さく、頭を上から見ると丸い形をしていて、種子島の弥生〜古墳時代の遺跡から出土した人骨(広田遺跡)によく似ている。ただし、沖縄では貝塚時代に続いて10世紀以降、グスクと呼ばれる城を造った時代が始まるが、この時代の人骨(浦添グスク遺跡)を見てみると、頭が前後に長く、顔は上下に寸が詰まって、口元が前方に突出しているという特徴を持っており、本州の中世の人骨(鎌倉由比ガ浜南遺跡)によく似ている。
*稲作の伝わらなかった北海道では、縄文に続く時代は続縄文時代と呼ばれている。この時代の人骨(南有珠7号遺跡)も縄文人によく似ており、同じような特徴はアイヌの人たちの人骨にも見て取れる(有珠ポンマ遺跡)。このことから13世紀以降に成立したと考えられているアイヌ民族は、人類学的には縄文人の直系の子孫であると考えられている。しかし6世紀以降、北海道のオホーツク沿岸には独特の文化を持ったオホーツ文化人(大岬遺跡)が現れる。彼らは顔が長く、頑丈なあごを持っていて縄文人とはかなり異なった形質を持っている
*弥生時代になると北部九州地方に渡来系弥生人(二塚山遺跡)が現れるが、一方で同じ北部九州の沿岸や離島には縄文人の特徴を色濃く残した人々(根獅子遺跡)も住んでいた。
*今のところ弥生人骨の大部分は北部九州で見つかっていて、本州で見つかるものはごくわずかだが、その中で奈良県の唐古・鍵遺跡から見つかった人骨は、渡来系弥生人の特徴を備えていることで注目された。この人骨は右半分が欠損しているので、展示の中では唯一、側面から見た模型を展示している。
*弥生時代以降の古墳時代(羽根沢台遺跡)や鎌倉、そして江戸時代人骨(圓應寺遺跡)の人骨を見てみると、縄文人より渡来系弥生人と共通する特徴を備えている。現代の本土日本人は、縄文人と渡来系弥生人の混血によって形成されたと考えられているが、形質では大陸から農耕文化を伝えた人々の影響をより強く受けている。

!!7)骨を読む
::抜歯
:::かつて世界各地で見られたが、日本の縄文時代人や弥生時代人にもその証拠がある。前者では上・下顎犬歯と下顎中・側切歯を、後者では上顎犬歯・側切歯を抜く例が多い。
**【展示:抜歯のある縄文人男性頭骨:伊川津44+17】
**【展示:抜歯のある弥生人男性頭骨:横隈狐塚K−98(上顎両側側切歯抜歯)】
::歯の特徴
:::一般に、縄文人の歯は小さく、渡来系弥生人の歯は大きい。さらに、縄文人の上顎切歯の裏側(舌側)は比較的のっぺりしているが、渡来系弥生人では真ん中が深くくぼむ。これはシャベル形と呼ばれる特徴であるが、現代人では、北方アジア人に特有な形態である。
**【ハンズオン展示:歯の違いを触ってみよう】
::下肢骨の特徴
:::採集狩猟民である縄文人の体は農耕民である渡来系弥生人よりも小さいが、四肢骨は筋肉が付着する部分が良く発達し、全体にゴツゴツしていた。
**【ハンズオン展示:脚の骨を比べてみよう】

!!8)生活復元
ヒトの骨には生物学的な一般情報だけでなく、個々人のライフ・ヒストリー(生活歴)に関する情報も含まれている。それにより、過去の人びとの暮らしぶりや病気の歴史なども推測できる。
::蹲踞(そんきょ)
:::しゃがむ姿勢を蹲踞という。習慣化すると、股関節や膝関節、足首の関節に新たな小関節面や圧痕ができる。それを蹲踞面と呼ぶ。縄文時代には蹲踞面が発達している個体が多く、蹲踞の習慣があったと推定できる。
**【展示:蹲踞面のある脛骨・距骨:蝦島48号 右】
::妊娠痕
:::妊娠や出産を経験すると、寛骨と仙骨の関節部付近の寛骨表面上に、かなり深い溝や圧痕状のくぼみが生ずることがある。これが妊娠痕で、妊娠によるホルモン分泌の変化に始まる寛骨と仙骨の関節拡大過程で生ずると言われている。出産した子どもの数までは正確には分からないが、当時の人口学的な状況に関する貴重な情報源となる。
**【展示:強い妊娠痕のある女性骨盤:江戸時代人 池之端七軒町遺跡】
::梅毒
:::梅毒も病状が進行すると骨に痕が残る。室町末期に日本にもたらされたこの病に、江戸時代の江戸市中の成人の約半数が罹患していたと推測されている。
**【展示:梅毒罹患痕のある頭蓋+脛骨:江戸時代人 池之端七軒町遺跡】
::脊椎カリエス
:::結核は進行すると、脊椎などに特徴的な変形をもたらす。結核に冒された人骨が、初めて日本に登場するのは弥生時代である。
**【展示:脊椎カリエスの認められる椎骨―池之端七軒町遺跡】
::虫歯・歯槽膿漏
:::虫歯は、縄文時代以後、多くなったり少なくなったりしている。現代以外で最も多いのは弥生時代で、これは稲作と関係があるかもしれない。いわゆる歯槽膿漏の時代的変化には一定の傾向はない。
**【展示:虫歯・歯槽膿漏の顕著な下顎骨:縄文時代人 若海貝塚1号/江戸時代人 發昌寺跡遺跡】
::変形性関節症
:::縄文時代や弥生時代の生活は、現代よりも相当に過酷な運動あるいは労働を伴っていたらしく、背骨や膝などに炎症の跡のある人骨が多数発見される。
**【展示:変形性関節症が認められる大腿骨・脛骨(右)―若海貝塚1号】
::クリブラ・オルビタリア
:::クリブラ・オルビタリアとは、眼窩の上壁に篩の目のような小孔を生ずる病変で、日本語では眼窩篩という。小児に多く見られ、その発症には鉄欠乏性貧血をもたらす栄養不良や感染性下痢、寄生虫疾患等、様々な要因が関与している。
**【展示:クリブラ・オルビタリアのある頭骨:江戸時代人 池之端七軒町遺跡】
::エナメル質減形成
:::歯が顎の中で形成される成長期に身体的ストレスを受けると、歯の成長が阻害され、歯冠エナメル質表面上に線状、小窩状などの欠損部分が生ずることがある。これをエナメル質減形成というが、歯の形成時期は歯種ごとに大体決まっているので、エナメル質上の減形成の位置を見れば、病気などのストレスを受けた年齢が推定できる。
**【展示:エナメル質形成不全の認められる上下顎歯を持つ頭骨:江戸時代人 圓應寺遺跡】
::四肢骨萎縮
:::展示の縄文時代の10代後半(20歳未満)の(おそらく女性)個体の四肢骨は異常に細い。おそらく幼少時に小児麻痺か何かの病気にかかり、麻痺したまま、一生を寝たきりで過ごしたものと思われる。これは、縄文時代にあっても、仲間の手厚い介護があった証拠と考えられる。
**【コラム展示:縄文時代の手厚い介護―入江貝塚9号人骨全身骨格】
::ミイラ
:::ミイラは、骨しか残っていない多くの古人骨標本に関する軟部組織情報等を推定するための架け橋としても、重要な役割を果たす。
**【展示:江戸時代人女性(年齢不詳)のミイラ 東京都谷中三崎町遺跡】
!!9)生体復元 【展示:日本人の旅】
身長や頭形のみならず風俗なども考慮された、日本の旧石器時代人から江戸時代人(+あなた自身)までの生体復元。


!参考文献
中橋孝博 (2005) 日本人の起源.講談社、266 pp.
篠田謙一 (2007) 日本人になった祖先たち.日本放送出版協会、219 pp.
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